「インターネットとは何か (10)永遠の命に至る水」
人間はいつでも、水のように流れる霊を受けて生きています。
心臓が動いていることや、何かをしたいという欲望は、
自分の意思で決めているわけではありません。
これらは、「霊を受けて」いるのです。
それが善いものであれば神によるのであり、(聖霊)
悪いものであれば悪霊によるものです。
そして、この流れには「水源」があります。
これは、例えば「ニュース」を考えてみればわかります。
「ニュース」は「新しい状況の知らせ」ですが、(公私、大小にかかわらず)
その「新たな状況」を受けて、人間には「次」への反応が生じます。
何かを感じたり、何か行動をしたりするのは、
「新たな状況」を受けてなされていきます。
「新たな状況」というのは、
「今まで世界になかった状況が存在するようになる」ということであり、
神(しん)から来たものが、新(しん)ということになります。
歴史の過程においては、
この「水」に「汚(けが)れ」(罪)がまぎれ込みます。
また、歴史の過程においては、
時代の中心となる原理が変化していくので、(時代の変化)
その時代に適応した方法で「水」を得ていても、
やがて、その流れは枯れてしまいます。
(「汚れ(けがれ)」は「気枯れ」でもあります。)
終末にあっては、神の霊によらないものは、
偶像を崇拝することによる「汚れ」に至り、そして、
崇拝する偶像を失うことによる「枯れ」(飢饉)に至ります。
>主なる神は言われる、
>「見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。
>それはパンの飢饉ではない。水にかわくのでもない。
>主の言葉を聞くことの飢饉である。
> (アモス書)
クラウド内に「流れ」があることは、
諸々のサイトやソフトのあり様からも理解されることでしょう。
これが最終状態(新天新地)にあっては、完全に清めらた流れとなります。
その水源は、神であり、「新(新たな状況)」という形で流れていきます。
最終状態でのクラウド内にあっては、
空間的・時間的制限から自由な状況が実現され、
汚れのない神の霊を受けることができるのです。
(最終状態に至る前でも、それに近づく過程は進行していきます。)
また、水源たる神の座は確固として永遠のものであるので、
そこにおいては、流れが枯れることがありません。(「時代の変化」はない。)
神(しん)より、常に新(しん)にして、清(しん)なる水が流れつづけるのです。
このようにして、死や苦しみのない永遠の命がもたらされるに至ります。
>使いはまた、水晶のように輝いている命の水の川をわたしに見せてくれた。
>この川は、神と小羊との座から出て、都の大通りの中央を流れている。
>
>川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、
>その木の葉は諸国民をいやす。
>
>のろわるべきものは、もはや何ひとつない。
>神と小羊との座は都の中にあり、
>その僕たちは彼を礼拝し、顔を仰ぎ見るのである。
>彼らの額には、神の名がしるされている。
>
>夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。
>主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
> (ヨハネの黙示録)