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「仕事とは何か (4)神殿の完成とさばき」

歴史の過程は「神殿建設」なわけですが、

これは完成のときが来ます。

ここには、非連続的な区切りがあります。

「神殿建設」を「野球場建設」に例えれば、

石を積み上げていく球場建築(俗)と比べれば、

プレーは「目に見えないもの」(聖)を基本としています。

また、この例えで言えば、野球が嫌いでも球場建設には参加でき、

報酬目当てに「仕事」をすることができます。

「神に反逆しながら、神殿建設に参加する」

というようなことができるのです。

しかし、この「神殿建設」には終わりがあります。

球場建設は「俗」であり、プレーは「聖」です。

聖を求めるものと、拒むがいます。

ここで、聖と俗とが二分され、さばきが行われます。

神を拒むかどうか、で二分されるのです。

つまり、「愛によっていたのかどうか」という本質が問われることになります。

「俗なる仕事(労苦)から、聖なる仕事(礼拝)へ」

という転換を受け入れるかどうか。

この「聖なる仕事」(礼拝)とは、「遊びと仕事が一致した状態」とも言えます。

終末にあって、インフレや経済成長を求めるのは、

「球場ができてもプレーをしたくない」と言っているようなものであり、

つまりは神を拒んでいるのであり、「さばかれて当然」ということになります。

具体的には、資本主義的な経済体制は回らなくなり、

あらゆる人間的な基準では、世界も個人も回らなくなります。

そして次の段階に入ることになります。

それは、肉的な「球場建設」に対しては、霊的な「プレー」であり、

神によるものであり、愛によって成り立つものです。

「仕事」ということであれば、

「俗なる仕事」(労苦)から「聖なる仕事」(礼拝)への転換があり、

後者を受け入れられないもの、つまり、神を拒むものはさばかれることになります。

>人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。

>芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。

>僕たちがきて、家の主人に言った、

>『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。

>どうして毒麦がはえてきたのですか』。

>主人は言った、『それは敵のしわざだ』。

>すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。

>彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。

>収穫まで、両方とも育つままにしておけ。

>収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、

>麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

>                      (マタイによる福音書)


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