「仕事とは何か (5)遊びと仕事の一致」
一般に、「野球場を作る」と言えば「仕事」と思われるし、
「野球をする」と言えば「遊び」と思われるでしょう。
「プレーをするのは遊びで、球場を作るのは仕事」とすると、
「遊び」には「聖」である傾向があり、
「仕事」には「俗」である傾向があります。
「遊び」の方が対価を求めない愛によるものであるので、
それは「聖」であり、「仕事」はその逆になります。
・不要だが聖 → 遊び
・必要だが俗 → 仕事
というような理解がなされているのです。
「必要だが俗」なことが完成すれば、
「遊びは仕事」となり、「仕事は遊び」となります。
このような状態が、神の国(「天国」)のあり方です。
このように、神の国でのあり方は「聖なるもの」によるわけですが、
聖なるものを拒むものには、「居場所はない」ということになります。
さらに、野球の例えで言えば、「球場建設よりもプレーは聖」であり、
プレーにおいて最も聖なる存在はボールです。
ボールは生贄の子羊たるイエス・キリストに対応します。
ボールの丸さは、「従順、完全」という生贄の性質を表します。
キリストによる、
「聖なるものによってのみ成り立つ世界」
という状態に至るということになります。
>その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。
>また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
>
>エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、
>すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。
>その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。
> (ゼカリヤ書)