top of page
すべてのアーカイブ
すべてのカテゴリー

「仕事とは何か (9)『人格』」

歴史の過程は「神殿建設の過程」であるわけですが、

この過程に、いつ、どこで、どのように関わるかは、

人によってそれぞれ違い、それが「職業」と呼ばれるものであり、

これは「人格」にも関係しています。

一方で、「俗」である職業に対して、

いわゆる「宗教行為」を含む「趣味」・「遊び」・「学芸」は、

「聖」に関わることであり、より深く人格に関係しています。

つまり、「神殿建設」あるいは、

そこで行われる礼拝(趣味・遊び・学芸)において、

「いつ、どこで、どのようにするか」が、すなわち「人格」ということになります。

神殿建設、および、そのさらに内側(聖)で行われる礼拝(趣味・遊び・学芸)は、

神に対するものです。

よって、

「神なるキリストを主にして、どこに位置しているかが人格である。」

ということになります。

歴史の過程においては、

この「職業(俗)」と「趣味・遊び・学芸(聖)」は分離しています。

これは「聖と俗が未だ一致しない状態」であり、

だから「過程」となります。

これが、「神殿の完成」・「世の終わり」に至っては一致することになります。

(歴史の過程にあっても、

「職業(俗)」と「趣味・遊び・学芸(聖)」は、

かなりの部分、相関があります。)

これは「人格の完成」を意味します。

そして、最終状態においては、この人格間には対立はなく、

有機的な調和・統一が実現します。

職業が「野球場建設のどこに関わるか」ということだとすると、

最後は「守備位置について、それぞれポジションを持っている」ような状態です。

(この両者には相関があります。仕事と趣味には相関があるようにです。)

各ポジションはそれぞれ違い、多様性がありますが、

全体としては有機的な調和・統一を備えています。

あるいは、「人体」ようであるとも言えるでしょう。

顔や臓器など、色々な器官があるわけですが、これは全体として一つです。

これは「神の一部となる」ということであり、

「それぞれに持ち場がある」という状態になります。

その「持ち場」が人格であり、人格が完成する、

つまり人間が完成することになります。

>彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。

>彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、

>彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。

>わが民の命は、木の命のようになり、

>わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。

>                         (イザヤ書)

>あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

>                    (コリントの信徒への手紙一)


bottom of page