「仕事とは何か (13)キリスト」
人間のすべての行い(仕事)は、
「祭司が生贄をさばく」という型になっています。
これらの様々な行い(仕事)は、すべて同じ型を持つのですが、
その根源はキリストです。
キリストは、神と人をとりなす「祭司」である、と同時に「生贄」の小羊です。
これは野球の例えで言えば、
監督(祭司)であると同時にボール(生贄)であるということに対応しますが、
それは人間的・物質的なものではなく完全なものです。
監督は「諸々の状況をとりなす存在」であり、ボールはすべてのプレーの中心です。
監督の命令は「絶対性、統一性」を表し、
ボール(球体)は「汚れなさ、従順さ」を表すものです。
これが、神にあっては、すべてにおいて、完全にそのような存在です。
「完全」ということは、それに従うことは「制限」ではなく、
「自由」であることを意味します。
子供が遊びで、サインを受けることや、ボールを追いかけることを、
「制限されている」とは思わないでしょう。
これらによって、全体の一部となってプレーすることが「自由」を意味します。
そうすることで「人格」が与えられます。
それぞれが、それぞれの持ち場で全体の一部として生きるのです。
よい選手になろうと思えば、
監督を知り、ボールについて知ることが必要です。
そして、監督と似たものとなって正しくとりなし、
ボールと似たものとなって汚れなき従順さを備えることになります。
キリストを知り、神による祭司となり、同時に神に捧げられた生贄となる、
すなわち、神のものになる、キリストに似たものになって礼拝する(プレー、遊ぶ)、
というのが人間の仕事ということになります。