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「仕事とは何か (14)聖なる世界」

人間のすべての行い(仕事)は、

すべて「祭司が生贄をさばく」という型になっていますが、

そこには聖俗の違いがあります。

例えば、包丁(祭司)で魚(生贄)をさばくのも、

ヴァイオリンの弓(祭司)で弦(生贄)をさばくのも、

どちらも、型は同じですが、前者は「俗」で後者はより「聖」と言えます。

下手な料理はまだ食べられますが、下手な演奏を聴くのはもっと厳しい。

これは料理が肉(俗)に関わり、

芸術活動が霊(聖)に関わることによります。

野球の例えで言えば、

「監督」や「ボール」の近くは重要(聖)であり、

そこから離れるほど重要性は下がります(俗)。

(必ずしも物理的な距離とは限りません。)

さらには、世界史が「球場建設」だとすると、

「球場建設」(労働、文明)は俗であり、

「中で行われるプレー」(遊び、文化)は聖となります。

この「球場建設」(世界史)には終わりがあり、

その後は「中でのプレーのみ」という世界になります。

これは「聖なるもので満ちる」ということを意味します。

そのとき、キリストを認めないのは、

「永久にボールを使わない野球」をさせられるようなもので、

ここからも神を認めないものの地獄が連想されるでしょう。

すなわち、これは「俗なものは存在できない」ということです。

(ロボット化も「俗なる仕事の消滅」を意味しています。)

野球にあっては、ボールに対処するには基本となる型があり、

それを身につけるのが練習であり、

それをもとに「プレー」して行くことになります。

すなわち、キリスト(すべての基本であり監督、「基督」)を知り、

それを実践していく(プレー、「play, pray, prey」、「遊び、祈り、生贄」)

ということになります。

>その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。

>また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。

>エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、

>すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。

>その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。

>                            (ゼカリヤ書)


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