top of page
すべてのアーカイブ
すべてのカテゴリー

「死と復活 (5)『主』」

野球のような競技においても、劇のようなものであっても、

「出番」があり、これが「人間の生死」の型になっています。

一方で、両者とも「監督」と呼ばれる存在は、

選手や役者の「出番」を支配しながら入れ代わることなく全体を統治しています。

「監督」を神の型であり、「選手・役者」は人間の型となっています。

「監督」は言語による指示を出す「霊」であり、

「選手・役者」は実際に体を用いる「肉」という関係になります。

「肉」は死すべきものであり、(出番がある)

「霊」は不変的に統治します。(ずっと、「上にあり、中心にあり、すべてにある」)

監督の指示は「流れ」を決めます。

これは、世界における神の霊の型になっています。

その霊(流れ)を受けながら人間は何かをして行くのです。

試合にも劇にも終わりがあるように、

世界の歴史にも終わりがあります。

そのときに、「誰を監督としていたか」、

すなわち、「何を主としていたか」が問われます。

「胴上げ」に参加できるのは勝者であるわけですが、

これは「主を主としていたもの」ということになります。

(具体的にはイエス・キリストを主としたものです。)

胴上げに参加できない敗者は、主以外を主としていたものであり、

これは「偶像崇拝者」であり、偶像とはこの世のもの、

すなわち、富や権力や身体欲求などを基準・目的とする(主とする)ものです。

試合における勝者は「強者」であり、

劇における結末は「必然(劇的に正しい結末)」であるわけですが、

世界の歴史においての勝者は、

もっとも聖なる存在、普遍的な存在ということになり、

これは創造主たる神となります。

創造主たる神は最強者であり、究極の必然です。

創造主は、山であれば頂上であって、

すべての根源であり、(流れの水源となる山頂)

すべての中心であり、(広がる流れの原点)

すべてを統べており、(方方に流れる水)

トーナメント戦でも最後は頂点の1チームが優勝し、中心で胴上げをするように、

最後は創造主のみが主として立つことになります。

この、根源であり、中心であり、すべてを統べる神の一部であったものが、

最後の胴上げにおいて主なる神の一部として復活させられ歓喜の中に存在し、

これが永遠の神の国の型となります。

bottom of page